毛玉取り器

 この世界の価値基準がすべてだと思い込んでいる人が嫌いでたまらない。なんでこの世界だけがすべてだと思うのだろう。自分の目に映り込んでいる世界だけが真実の世界だと思うのだろう。生前の記憶がなければ死後の世界のことも知らない、そんな状態でよくこの世界至上主義的な態度がとれるね!僕にはよくわからないよ!

 煙草をたくさん吸って、お酒をたくさん飲んで、仮に早くこの世界を去ることになったとしても、来世はその分長生きできるシステムだとしたら?どれだけひとつの人生で長生きしようが、結局トータルの人生時間はみんな同じだとしたら?

 こんな仮定も考える。もしこの世界で「悪い」とされていることが、死後の世界では全て賞賛されていたとしたら?この世でした「悪い」ことの数だけ死後褒められて報われるかもしれないとしたら?そんなことはありえないだなんて誰にも断言できない。この世界のどんなに偉い人でも、死後の世界のことは何にも知らないのだから!

 世の常識なんか所詮は最大幸福数を考えて人為的に作り出された多数決ルールなのだから、さほど重要だとは思えない。実際のところ、人を殺してはいけない理由をちゃんと明確に述べられる人なんかほとんどいないし、みんな自分の言葉で説明もできないモヤモヤとしたルールの下で惰性で生きてる。この世はどこまでも曖昧で、だからこそ死後の世界にはもっと明確な真実があるかもしれないとたまに思うのだ。

 それでもこの世界は何だかんだで結構楽しいし、自殺しようだなんて全く思わない。悲しむ人がいるからとか、与えられた人生は全うしなければならないからなんてそんなくだらない理由じゃなくて、ただ単純に「楽しいなあ」と思う瞬間があるからだ。楽しい人生。飛び降り自殺をした女子中学生のふたりは何を思って自殺したのだろうか

天使の君と天井のシミ

去年の年末に撮ったものの、何だかんだ精神的にあれすぎて編集することをやめてしまった素材をたぶん今日から編集して1本の映画にする。
そしてラップ好きの友達のコネからラップ好きの人々をたくさん集めて半分ドキュメンタリーで半分ミュージカルみたいな映画を近いうちに撮る。
そして夏には僕たち人間がこの世に生まれてきた意味を自ら問う同性愛をテーマにした映画を撮る。
まだまだ撮りたい映画がたくさんあって、今すぐにでも語らねばならないテーマがたくさんある。いつ死んだって構わないけれど、死ぬまでは精一杯に生きたい。だからこの世界と仲良くして、自分と世界との友情の証(映画)を作り続ける。生きている実感を得るために!

どんなときも どんなときも
僕がチョコラスク買うために
好きなものを寿司と
和えるお餅 炊き締めてたい

ジェームズ盆地

映画祭で自分の映画が上映される。東京に始まり大阪、名古屋の三箇所で順次上映される。まだまだシネコンには程遠いけど、めちゃめちゃ嬉しい。恐らく応募された作品はほとんど上映されるんだろうけれど、それでも嬉しい。
自分の作った映画はやっぱりなるべく映画館、あるいはそれに準ずる施設などでたくさんの人に観てほしいという気持ちがある。映画はひとりで読む小説や茶の間で観るテレビと違って、たくさんの知らない人との一度きりの出逢いから始まり、同空間、同時間を共有し、とびきりの音響とスクリーンで「体験」するもの。やっと僕の映画がギリギリそのフィールドに立てたと思うと本当に感慨深いものがある。中学生の頃からの自主映画作りがようやく世間に受け入れられた感覚。
とは言ってもまだ何の賞も獲れてないし、まだまだ何者でもない。頑張らなきゃならない。まだまだ戦いはこれからだ!東海道中膝栗毛

タマネギの天ぷら

 映画祭にまたもや落選、どうにもこうにも奈良内閣、とは言ったものの地域活性化が主目的の小規模な映画祭なのでそんなに気を落としているわけでもなく…もちろんそれなりには気を落としているのだけれど、ちゃんと夕ご飯も食べることができるし、ちゃんとTwitterも元気に更新することができるほどの精神状態ではあるので、何も心配することはないし、僕の人生これからしあわせなことしか待っていないはず!!

 来週は京都に行って人間の排泄にまつわる映画を1本、MVコンテストの課題曲のMVを1本撮る予定だ。この二本とも、僕が今まで1度もしたことのない試みに挑戦する。

 まず前者は主人公がまるで僕ではない(僕と心情的に何の関係もない)キャラクターであるということ。そんな映画、過去の1度も撮ったことがないし、こういうキャラクターを設定することによって、カメラを撮る側と撮られる側の心的距離に微妙な変化が生まれるかもしれない、という軽い実験である。

 後者はMVである。そもそも僕は(軽いものならあるけれど)MVそのものを撮ったことがほとんどない。自分が映画のつもりで撮った作品を「MVっぽい」と言われたことなら何度もあるけれど、自分の意思で「MVだ」という体裁でMVを撮ったことがない!これはあらたなる挑戦!血沸き肉躍る体験!

 MVならちゃんと画コンテも全ショット描ききれる自信がある。なので従来の「行き当たりばったり」演出ともおさらばできる。今度こそ最高の映像作品を作りたい!完璧でありながらも、乱雑で、時にいとおしいぐらいに激情的な映像を作りたいんだ!という気持ちで臨む。

 そして1カット1カットをまるでフィルムカメラで撮るかゆような(この誤字はかわいいからわざと残しておいた)繊細な気持ちでビデオカメラを被写体に向けたいと思う。そして勢いと惰性だけでカメラを振り回していた過去の自分と決別したいのだ。新しい道、新しい自分、新しい季節!!常に時は進み、時代は変動している。そんな中で自分だけウジウジしているわけにもいかないのだ!常に動き続けていないと殺される!それぐらいの気概で生きていかないと、何の爪痕も残さずにあっという間に寿命が来てしまう!生きないと!精一杯!華麗に!!

身体中の痛み

 なぜか信じられないぐらいに身体中が痛くて痛くて仕方がない。もう風邪も治ったはずだし、今日起きたばかりの時は「寝違えかな?」と思って放置していた痛みが少しずつその主張を強めていき、現在に至る頃には「あれ…?めっちゃ死にそう…」と実際にひとりで声を出してしまうぐらいの苦しみに変わっていた。

 本当に痛すぎるし、痛すぎるのになんでこんな文章を書き始めてしまったのだろうかという疑問もある。ブログを書くこと以上にするべきことがたくさんあるのに、なぜ今僕はこうしてブログを書くことを最優先事項であるかのような振る舞いをしてしまっているのだろうか。人間とはつくづく不思議な生き物である。

鶏肝を食べた話

 先日、とある居酒屋さんで鶏肝を食べた。口の中に入れた途端、まるでそれは淡く儚い恋心のようにスッと消えてなくなって、旨味の残像だけが口内にうっすらと残り続ける。そのくどすぎるほどの自己主張、無常観、世界観の広がり。まさに僕は「人生」を味わっているのだと思った。

 人生は楽しいこともあるし、たった今(窓の外の雨の音を聴きながらブログを書いている)のように楽しくないこともある。でも、だからって悲観することはないし、それも全部ひっくるめての人生なのだ。完璧な映画が存在しないように、完璧な人生だって存在はしない。だからこそ、自分の感性で美点を見出して、少しでも「楽しむ努力」をしていくことが大切なのである。

 春休みもあと半月と少しで終わる。今までの1か月と半月の間、一体僕は何をし、どのような成長を遂げたのか自分でもわからなくて、無意味に時間を浪費してしまっていたのではないかという不安がグルグル自分の周りを旋回している。あと半月、自分にできることを必死にせねばと思い、その第一弾としてのこのブログ記事をしたためているのだけれど、どうもやる気のスイッチが入らないし、そもそも僕は本当に脚本を執筆する作業が死ぬほど嫌いなのだ。

 恋愛もの、SFもの、アクションもの、ホラーもの、どんなタイプの脚本を書いてみたところで、常に主人公は自分でしかなくて、世界観も何もかもが「自分」でしかないという面白味のなさ。僕はある意味で全く自分に対して興味がないからこそ、映画という偶然性の高い媒体での表現に賭けているというのに、これでは暗くて狭い部屋でひとり漫画や小説を書いて自分自身と対話している人と何ら変わらないではないか。

 僕はもっと僕以外の世界で、僕以外の人間と混じり合いながら、未知なる世界を開拓してきたいだけなのだ。なのに常に「自分」がつきまとってくる。本当にうんざりだ。金輪際、鶏肝しか食べたくない気分。そんな思ってもないことを言ってみたところで「自分」は僕から離れてはくれない。なんと悲しい世界なんだ。

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