豊かな暮らし

 豊かな暮らしを実施したいという人間本来の欲求が高まっている。豊かな暮らし。なんて良い響きのWordだろうか!この響きが耳の鼓膜をくすぐるだけで、自分の腐り切った生活がほんの少しだけパッと明るくなるような気がする。塞ぎこんだ気持ちにちょっと心地良いそよ風が通る。言葉の響きの効力。

 先日、フォロワーさんの出演している、とある演劇(短縮お試し版)を拝見した。言葉の力、そして言葉の持つ意味を越えたパッション!衝動!躍動感!自分の心を握りしめられるような胸の突っ張り感。ずっとずっと映画に恋し続けてきたけれど、その瞬間、その舞台を感じている瞬間、僕は少しだけ「演劇」に心奪われた。不倫の始まりである。川谷絵音

 そして僕は考えた。今まで地道に積み上げてきたものを全て投げ出してまで「演劇」を愛する覚悟が僕にはあるのか?今日初めて会ったばかりの「演劇」に自分をさらけだしてしまってもいいのか?僕は一晩考えた。

 そして僕はカメラを持って街に出た。そして目に入るもの、肌で感じるもの、全てをカメラで切り取って乱暴に収めた。何も考えずに、衝動のままに、脳みそを一切使用せずに「身体」で映像を撮った。そして僕は編集する。今までの「映画」の発想を捨てて「演劇」の脳で映像を編集してみる。全てがたった今、リアルタイムで起きているかのような実況中継風の編集加工を施す。精一杯「演劇」に寄り添う。口説き落とす。

 そして完成した映画はものの見事にただの「映画」だった。まだ僕は「演劇」を口説き落とせるほどのスキルがなかったのだ。僕は一旦「演劇」のことを忘れて映画を観る。好きな映画を好きなだけ観る。

 中学生の頃、映画を好きになってから大学二回生の今に至るまで、散々映画と戦ってきた。恋してきた。遊んできた。殴る蹴るの派手な喧嘩だってしたし、絶交宣言だってしたことがあるし、一度だけ殺し合いもしたことがある。僕の人生の傍にはずっと「映画」がいたのである。

「映画」が僕に「おかえり」と静かに言う。僕は少しはにかみながら「ありがとう」と言った。そして僕は「演劇」に「また」と言って軽く会釈する。「演劇」はフッと笑うと隣の家に帰っていった。まだまだ「演劇」は僕のことを諦めていないようだ。

 たった今も僕は映画の編集をしている。眠い目を擦りながら編集をしている。ショットを切り、繋ぎ、時間のエモーションを産みだそうとしている。自主映画の大量生産体制に入ってから早1年が経とうとしているが、成果はいまだに全くなし。まだまだ「仕事」ではなく「趣味」の段階だ。数年後には就活もしなければならないし、現状がとてつもなく不安。正直、死にそうだ。

 お酒を飲んでも何も解決しないし、心の支えになってくれる恋人がいるわけでもない。目の前にあるのは「映画」のみ。そう、僕の目の前には「映画」しかないんだ。何だか笑えてくるよ。こんなにも飽き性の僕が、こんなにも長い間、君と一緒に同じ酸素を吸い続けているなんて。不思議な話だよ。

 

f:id:WatagashiPenguin:20160213013316j:plain

リブート版ファンタスティック・フォーが好き

The Walk

 今はもうなきWTCでのフィリップ・プティの偉大なる「芸術」は、映画によって再び観客を当時の興奮を呼び覚ませ、3Dによって彼の、そして僕たちの記憶は永遠になる。こんな美しいことがあって良いのだろうか。

 どんな不可能なことだって、挑戦することを諦めなければ叶うのだ。フィリップの地上411mでの偉業、そしてそれを支えた恋人、仲間たち、そして運。それらが混然一体となったクライマックスでの彼の「夢」の姿に興奮しないわけがない。こんなにも感動に満ちていて、優しくて、美しい映画を僕は観たことがない。

 映画は終わらない。映画自体はもちろん終わるけれど、映画の中の世界は永遠に続くのだ。僕たちはその世界のごく一部を映画館で観ているに過ぎない。映画は永遠だし、現実がどんなに悲惨であろうとも、映画の幸福は永遠に続くのだ。

タイトルが思いつかない記事

 正確には記憶していないけれど、確か僕が映画に興味を持ったのは中学二年生の頃だったと思う。当時、僕は小説と漫画に夢中で、ひたすら小説を書いては友達に読ませ、漫画を描いては友達に見せ、今思えば相当迷惑な人間だったように思う。

 そして僕はやがて映画の世界にのめり込み、様々な映画監督にのめり込んではその監督の作風を愛撫するように自分の自主映画に丁寧に練り込むということをやっていた。たくさん人の死ぬ映画も撮ったし、たくさんの人がたくさんの人を殴ったり蹴ったりする映画も撮った。でも誰に褒められることもなければ、どこかしらの賞で認められることもなかった。僕はずっと孤独の暗がりの中で、ひたすら口をぽかんと空けながら、惰性でその日その日を消費した。大学に入れば全てが自由で、映画の才能だってすぐに花開くと思っていた。

 しかし大学に入学すると、むしろ状況は悪化した。悪夢が悪夢を呼び、僕は映画を観ることも撮ることも禁止され、ひたすら大学の授業に出席するだけの日が続いた。そしてその日々をTwitterに書き留めてはみみっちい自己顕示欲を満たし…

 大学生活の二年目に入ると僕はとにかく映画をたくさん観た。2015年は人生で1番劇場で映画を観た年となった。たくさんの映画に出逢い、たくさんのことを教わり、たくさんのことを学んだ。時として映画は人間以上にものを教えてくれる。そして僕の言葉にもきちんと反応してくれる。ちゃんと向き合えば、映画とだって会話ができるんだ。

 それでも僕の現状は中学生の頃から何も変わっていなかった。自主映画は認められないし、社会にも認められないし、大学のコミュニティにも入る隙間がない。友達ができなければ恋人もいないし、映画を撮っても何だか自分の精神が追い込まれていくばかりな気がしてくる。

 今、この記事を書いている。腰が痛いし、今日提出のレポートが二本あるので徹夜で書かなければならない。いつまでこんな窮屈な生活が続くのだろう。ザ・ウォークのことばかり考えている。どうしようもない人だかりから離れた、ひたすらに美しくてひたすらに綺麗な静寂に包まれている空間。そこで生と死の狭間を彷徨い、生きている実感を得る。自分がこころから好きな人に感動を与え、自分は世界中の人たちから拍手を貰い、世界にたったひとつしかない存在(WTCビル)に全身を受け入れてもらう感覚。あの感覚を求めて僕は20年間、生きてきたんだ。

f:id:WatagashiPenguin:20160125013258j:plain

ハワイとグアムには行ったことがあるけれどアメリカ本土には行ったことがない

 人生はいつだって厳しいし、激しいほどに切ないし、どうしようもないぐらい残酷で無慈悲でみみっちい。なんで俺がこんな気持ちにならなければならないんだ、なんで俺がこんなことをしなければならないんだ、好きなことを好きなだけしていたいのに。

 そんなことばかり思っていると人生はあっという間に終わってしまう。そんな人生の使い方はもったいないし、少なくとも自分はしたくない。たとえどうしようもない人生、現実だったとしても、その中でベストを尽くさなければならないのだ。尽くす気力もなければ死ねばいい。でも死ぬぐらいならもうちょっと生きてみたっていいじゃないか。これから楽しい経験たくさんできるかもしれないじゃないか。できないかもしれないけど。

 とにかく昨日の晩からずっと左目だけがじんじんしている。何回目薬を差しても治らない。とても気分が優れない。今すぐにでもどこか遠くの自分のことを知っている人が誰もいない異国の地で新しい日常を始めたい。生まれ変わりたい。常に僕は生まれ変わりたい。現状維持なんかしてる暇はないし、常に新しいことに挑戦していきたい。でないと気持ちも身体も一気に老け込んであっという間に死んでしまうだろう。シニア料金で映画を観るにはまだ早い。まだまだやることがたくさんあるんだ

f:id:WatagashiPenguin:20160117230903p:plain

今年と来年

 目標というものは掲げてみたところで、明日にもまたすぐ気が変わって自分にとってまるで意味をなさないものになってしまうのではないかという懸念が常にあるが、それでも何らかの目標を立てておくことは決して悪いことじゃないんじゃないか、みたいなことを今日起床した瞬間にぼんやり思ったので、今年の目標をダラダラと書き連ねていくことにする。

 去年はたくさんの映画を観て、たくさんの映画を作った。作った映画に関しては(映画祭などでは)何の評価も受けなかったけれど、周りに褒めてくれる人もたくさんいたし、かなり自信になった。なので今年もこれぐらいコンスタントに映画を作っていきたいと思う。そして必ず何らかの賞を勝ち取りたいと思う。

 ただ映画にばかり向き合っていても段々吐き気がしてくるので、今年は映画以外のこともたくさんしたい。これは別に映画の道に進まなかった時のための保険だとか、そもそも映画に飽きたとかそういう話ではなく、映画を作る上で始終映画のことばかり考えていてもしょうがないし、精神衛生上も良くないということだ。

 人として様々な経験をし、様々な挑戦をし、それらがちゃんと肉となり血となり、初めてじぶんの表現としての「映画」になる。映画のことばかり考えていても「映画」を撮ることはできないのだ。

 だから今年は様々なことをしたいし、様々な人に会ってみたいと思うのだ。もちろん相手がいるのなら恋愛だってしてみたいし、楽譜すら読めない状態だけれど音楽だって作ってみたい。去年に引き続き小説だって書きたいし、漫画だって描きたいし、演技だってもっと深めたい。自分という人間の可能性を無理やりにでもグイグイと広げていきたいのだ。

 だから今年の目標はやっぱりない。目標を作ったところでその目標の枠に賢くまとまってしまうような気がして、何だか恐怖を感じる。だから目標なんか関係なしに、自分の生命が綺麗さっぱり燃え尽きるまで、散々散漫にいろんなことに挑戦していこう!ってのが自分なりの2016年だ。2017年は笑顔で初日の出を見たい。そのためにも頑張らねば2016年!