おしゃれな日曜日

 美味しいビールの酔いもすっかり冷めたところで冷たい牛乳を飲みながらカントリーマアムを踊り食い、映画を観たり好きな小説をぱらりぱらりと読んだりしているうちにもう自国の時刻は午後5時23分である。なんともまあ時空が歪みすぎているような気がしてならない。国家の陰謀で日曜日だけ時間が短縮されているのではないだろうか。

 それにしても今週(月曜から日曜までを1週間と数えたい)も何の成果も得られなかったような気がする。そういえば残酷映画祭に出品するための映画の編集が終わった(というよりソフトのクラッシュが多すぎて終わらされた)のだけれど、本当にびっくりするぐらいに残酷じゃない。残酷を極めてやろう、映倫でR18指定を食らうレベルの残酷描写をぶちかましてやろうと鼻息荒く挑んだのにも関わらず、できたのは安っぽいCGの血末梢がぷしゃっと飛んだり跳ねたりする程度……ずっと残酷描写が大好きで(残酷そのものが好きなのではなく、残酷描写によって描くことのできる感情の爆発が大好き)残酷な映画を撮りたい気持ちで常々うずうずしていたのだけれど、今回の経験を通して「自分は本当はそんなに残酷なものが好きなのではないのではないか」という疑問が頭上に浮かんでは消え浮かんでは消え…

 そもそも僕の好きな類の残酷描写というのは「目的」のためではなく「手段」のために描かれているものがほとんどであって、残酷描写そのものが大好きというわけではなかった。例えば、意味もなく人が残酷にぶち殺されていく描写は、それがギャグとして成立するのであれば「ギャグのため」という目的の上に成り立つ立派な手段となり、大変に好きなのだけれど、笑いがなければほとばしる作り手の気迫もない、あるのは死体と肉片と血だまり、そういう残酷描写はやはり「ああ…」となるし、やっぱり生理的にダメだ。

「生理的に」という言葉で思い出したのだけれど「生理的に」という言葉は本来、女性のみが使える言葉らしい。詳しくは覚えていないし、今更きちんと調べるつもりもないのだけれど、その事実を知ってしまった以上、もう僕は「生理的に」という言葉を使うことはできない。性転換でもしない限りは。

 性転換と言えばやっぱり性転換は少し憧れる。そんな切実に「うわあ!性転換したい!」というわけではないので、本当に性転換をしたくて悩んでいる人に失礼になるのではと思い、いつも口にするタイミングを逃してしまうのだけれど、やっぱり女性になることには憧れがある。それに失礼な話、やっぱりそういう人たちはマイノリティであるが故の苦しみを抱えているからこそ、素晴らしい表現ができるのではないかと思うのだ(ゲイやホモのアーティスト多くない?)

 好きな監督のひとり(いや二人)にウォシャウスキー姉弟がいる。かの伝説の『マトリックス』3部作やら『クラウド・アトラス』『ジュピター』なんかを撮った姉と弟の二人組の映画監督。僕がオールタイムベスト級に愛してる『スピード・レーサー』もこの姉弟が撮った。

 この姉と弟のうちの姉のほう(名前忘れた)が確かちょっと前に男性から女性に性転換したのだけれど、残念ながら性別の変化に伴う作風の変化はわからない。なぜわからないかと言うと、僕はなんと彼女が性転換する以前に撮った『マトリックス』シリーズを1本も観ていないからだ!うわー!こいつ何マトリックスも観てないのにウォシャウスキーズについて偉そうに語ってるんだよ!うわー!

 でも僕は(恐らく)性転換後に撮った『スピード・レーサー』がぶっち切りに大好きだ。他人が「大好き!」と言っていたら「いや俺のほうが大好きだし!」と思うレベルにむちゃくちゃに大好きだ。物語は普通のレーサーが色んな事件に巻き込まれてどうのこうの、ラストに報われてどうのこうの、という話なのだけれど、個人的にこれはもう完全に「アーティストが世界とどう戦い、決着をつけていくのか」という話。レース映画の皮を被った「芸術家の心の葛藤映画」なのである。つべこべ言わずにまずこの絵ずらを観てほしい。

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 絵ずらだけで監督の気迫、情熱、そして何かもう説明できない感じのあれがあふれ出ているではないか!しかもこんな感じのショットが観る者の動体視力を弄ぶかのように矢継ぎ早の猛烈カット割りで観せてくる。それはもう死を感じるほどに!もし字幕版で観た日なんかには画面の情報量の多さに目玉が潰れてしまうかもしれない。何度観返しても「この世に存在してはいけない映画ではないのか」という不安に駆られる。それほどまでに強烈で刺激的で、油断しているとずぐに振り落されてしまう、そんな映画なのだ。

 それでいてテーマは「自分と世界との関係性の見つめ方」というぶ熱い感じのあれ…クライマックスに猛烈なスピード(もう本当に早くて音速の世界を体感しているような気持ちになる)で走る主人公にとある先輩のメッセージのモノローグが被る瞬間…これぞ世界の真理だ!芸術家、表現者としての「世界」との戦い方だ!と熱い涙が止まらなくなる。

 この映画を観て以来、僕はウォシャウスキー姉弟のことが大好きになり、上記に述べたように「性転換したいなあ…」とかいう浅はかで本気で願っている人には失礼な、そんな願望を抱くようになった。それ以降にもドランの映画を観たり(何だかんだで未だに『Mommy』の1本しか観ていない)しているうちにやっぱりゲイとかホモとか性転換の経験のある人(ごっちゃにして語ること自体が正しくないことなのかもしれないけど、今回は「社会的マイノリティな存在」という意味で同列に語る)の身体の奥底に持つ気迫のようなもの、ほとばしる表現欲求のようなもの、そういうものに猛烈に憧れるようになった。

 そして自分も表現者の端くれとして立派な「マイノリティ」になってやろうと思い、積極的に友達を作らなかったり、道ゆくカップルに心の中で唾を吐くような生活を続けているのだ!(こういう言い訳を考えることで大学でぼっちであることが無性にかっこ良いことであるように思えてくる。そしてそもそも「マイノリティ」であることを自らの意思で選択すること自体なんか根本からズレているような気が、今この文章を書いている途中でしてきた)

 そんなことを書いているうちにすっかり窓の外は暗くなり、両親もバタバタと帰宅して夕食の準備を始めている。自国の時刻は午後6時24分。途中で中断しておにぎりせんべいを食べるなどしていたので「うわ!こいつ文章書くのおせえ!」などと思わないでほしい。そもそもこういう指摘をしてくるバカに限って自分は一行たりとも文章を書かない(書けない)ことが多い。

 小学校の頃、外できゃっきゃすることに興味のなかった僕は、ずっと休み時間に自由帳に絵を描いていたのだけれど、ときどき声をかけてくる連中というのはいつも「ここをもっとこうしたほうが良い」だの「下手くそ」だの言ってくる。そんな連中にどんな辛辣な感想を言われようが、図工の時間になればクラスのヒーローになるのはいつも僕で、あいつらは俯きながら時間がすぎるのを待っていたり友達とバカ話をしていたりしているのだ。

 だから社会的に勝利するのはいつも「マイノリティ」なのだ。今この瞬間にでも将来の不安に苛まれてうじうじしている人たちこそが、将来びっくりするような大成功を収めるのだ。今この瞬間にでも居酒屋で合コンをしていかに目の前の女の子を口説き落そうか考えているような連中の人生のピークはまさに今。これから飛躍していくことはない。勝つのは俺だ!世界を救うのは俺だ!