おしゃれ大学生の手記2

 シルバーウィークも終わってしまった。終わってみればあっという間、終わらなければもっといっぱい映画とか観れたのに、そんなことを考えては「うはあ…」とか何とか言いながら痛む腰をさすったり叩いたり…

 今が何時なのかと言うと、深夜の1時53分である。愚民は寝沈み返り散らかし、まるで今起きているのは全人類で自分だけなのではないかというやたらに選民思想っぽいことを考えるなどし、他人のことを「愚民」呼ばわりするほどに偉そうな精神状態になる。通常の自分とはちょっと違う、深夜のテンションの自分だ。わっほーい!みんな読んでる?僕は読んでるよ!だって今まさに僕が書いてるんだもの!読んでもない文章を書けるわけないよね!ウケる!

 そんなことをだらりだらりと書いている間にも自国の時刻は1時58分である。僕がいくら適当に時間を浪費しようが、老舗の和菓子屋のようかん並みに密度の濃いどろりとした時間を謳歌しようが、時間はちっくたっくちっくたっくと進んでいくのである。なんともまあ、人の生きている世界での現象とは思えないほどに人肌のぬくもりを感じない無機質な事実であることよ。本当にこの世は人が生きていくために創られた世界なのだろうか。なんか余りものの貧乏くじとかではないのだろうか。

 今もうすぐで僕の映画の仮編集版が完成するところだ。それを待っているのを兼ねて今こうしてカタカタとキーボードに指を滑らせながらこの文章を書いている。たぶんこの文章を書くのはその映画が完成するまでの間だ。よし、決めた。今、自動で僕の映画が出来つつあるのだけれど、その映画の完成と同時にこの文章を書くのを止めよう。途中でも終わりだ。そうやって運命に身を任せてみるのもロマンチックでなかなか良いじゃないか。おしゃれじゃないか。粋じゃないですこと?

 それにしてもさっき「リアル蟹ごっこ」というなかなかに面白いネタツイートをしたのだけれど、何の反応もないのは明らかにおかしい。もしかしたら通知が来ないバグなのかもしれない。あるいは自分の視覚能力に何らかの問題が生じているのかもしれない、というのは冗談なのだけれど、やっぱりネタツイートに反応がないのは悲しい。と、同時に嬉しさもあるのだ。「このギャグセンス、面白いと思えるのは今のところ僕だけなのだな」と思い、勝ち誇った気持ちになるである。

 そもそも僕は「誰からも支持されないギャグ」というものが好きだ。普段テレビをつけるとそこに映し出されているのは「みんなに支持された(あるいはされたように見せかけている)ギャグ」である。誰かが面白いことを言えば観客席からどっと笑い声が上がり、それによってギャグはきちんとその場で消化される。ごくまれにウケないギャグもあるけれど、そういうギャグも大概は「ウケないこと」がウケて結果的に笑いの渦に飲み込まれ、消化されていく。

 でも、僕の好きな「誰からも支持されないギャグ」というのは誰にも消化されない。消化されず反応もされず、ただ孤独にぷかぷかと宙を舞い続けるのだ。その時、ギャグは既に「誰か拾って!」などと思うほどの向上心もない。あるのは諦めと「ああ、誰からも評価されなかった」という絶望のみ。しかし、そういう絶望の果てに「本当の笑い」があるのではないか、そう僕は思うのだ。

 なぜかパソコンがバグって映画のエクスポートが中断されたので、今いじり直して再開させた。またいちからやり直しだ。本当にこのクソみたいなふざけたパソコンを今すぐにでも買い直したい。初夏に買ったばかりなのにもう既にバグとクラッシュの雪崩、ゴミ収集車に詰め込まれるゴミ袋のごとし、である。

 で、話を戻すと「本当の笑い」というのは常に絶望の果てにあるのではないか、と僕は思うのである。なのでたとえばこの少々のウケを狙ったブログ記事だって、誰にも読まれることなくインターネットの渦に飲み込まれるかもしれない。でも、むしろそのほうが「おかしい」のではないか。むちゃくちゃ「笑える」のではないか。僕はそう思うのだ。

 さて、笑いについてひと語りしたところで話題に尽き果てたし腰もかなり痛い。これからどうしよう。今こうして読んでくれている人、今この瞬間の僕の気持ちになってみてはくれまいか。僕は今、何をするべきなのだろうか。何をこの記事に書くべきなのだろうか。どう?何か浮かんだ?今、あなたが思い浮かべたそのことが、今から僕が書くべきテーマなんだ。準備はいい?書くぜ?書いちゃうぜ?

 将来はどうやって生きていこうか。将来についてだ。そう、君が想像した通りだ。読み手と書き手の心がきゅんとシンクロした瞬間だ。こうして文字は人と人との心を繋ぐのである。なんだか読書啓発ポスターのキャッチコピーみたいなあれだけど、文字が人を繋ぐ、なかなか良い言葉ではないか。人との繋がりが叫ばれているこの現代、大事にしてきたい言葉だ。あと人との繋がりと言えばムカデ人間が観たくなる。

 将来はやっぱり底抜けにお金持ちになりたい。最近の若者(僕らの世代の人々)は向上心がなく、ことなかれ主義的&保守派で「生活してくことができれば良い」という人が増えているらしいけれど、僕は絶対にそんなのは嫌だ。こじんまりしたマイホームを買って、ローンを堅実に払いながら堅実な妻と堅実な生活をする、そんな人生まっぴら御免だ。もっともっと、刺激に満ちたおしゃれで優雅でサイケデリックなふわとろライフを送りたいのである。

 そのためならある程度のことを犠牲にしても構わない。そうしてでも絶対的に手に入れたい未来があるのだ。たくさんの映画を撮って、たくさんの作品を世にはなって、世界を、そして自らの人生を変える。そういう人生を送りたいのである。ああ!好きな人と好きなことを好きなだけ好きにする人生!好きな場所で好きなだけ好きなもの食べて好きな映画を観て撮る人生!間延びした半端な人生なんか下水管にさっさと流して、ろ過された綺麗な水の煌めく水面でツーっと滑るような人生!そういう人生を送りたいんだ!

 送るためにはどうすれば良いのか。それはもちろん「送りたい」と強く願うことである。すぐにダメだのできないだの言って諦めるからこそ、大半の人間は自分が思うような人生を送れないのである!欲望を強く願え!そうすれば叶う!人間に不可能の文字はない!「考えつく」ことは「実現可能」なことであり、人間にとって「実現可能」だからこそ「考えつく」ことができるのである!そんなことが先日読んだビジネス書に書いてあった。

 そう考えると、今年に公開された『トゥモローランド』は今思い返しても本当に「ビジネス書」っぽい映画だったなと思う。一部の観た人の感想に「これはかなり危うい映画だと思う」とか「思想的にあれ」みたいなものが多かった記憶があるけれど、今あらためてピンとそう思った。ブラッド・バード監督の意向なのかもうひとりの脚本家の意向なのかわからないけれど、物凄く思想的に片寄った、それなりに危険な映画なのだなと思った。劇場で2回観て以来、一度も観ていないけれど…

 さて、映画のエクスポートは終わった、というかソフトのほうがバグっているらしく、6割ぐらい完成したところで強制終了されてしまうという悲しさ。映画が完成するまで書き続けるという名目のこの記事もいつまでも書き続けなければならないという事態になっている。ソフトをアンインストールしてインストールし直せばおそらく解決する問題ではあるのだけれど、なんせ現在2時48分、腰も今にも爆発しそうだしまぶたも鉄アレイがぶら下がっているのかと思うほどに重い。もうそろそろ寝なければならない。結局この夜中に僕の仮編集版の映画が完成することはなかった。確かにこのブログの文頭あたりでは「完成する」はずだったのに。

 このように未来はほんの些細なことでぐるっと変わってしまう。それが楽しくもあり、恐怖でもある。それが人生の醍醐味だ。全力で味わってやろうではないか。生半可な気持ちで適当に人生を消費するのなんかまっぴらだ。全力歯ぎしりレッツゴー!ギリギリ歯ぎしりレッツフライ!人は飛べる!そう思えば!

 

2時52分 とある郊外のマンションの一室にて