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21&22ジャンプストリート

 立て続けに『21ジャンプストリート』と『22ジャンプストリート』を観たのだけれど、こんなに面白い映画は滅多にないというぐらいに最高に面白いし最高にはまった。完全にちょっと乗り遅れた感があるけれど、遅れてでもこのシリーズに出逢えて良かったと思うし、それまで割と好きではあったけど大好きというほどでもなかったフィル・ロード&クリストファー・ミラーのコンビ監督のことが一気に大好きになった。

 それまでコンビ監督というものをそもそもあまり信用していなくて(二人組がクリエイティヴ面で同等の立場でものを作るという行為がピンと来ない)、もし自分だったらいくら仲の良い人でも共同監督で映画なんか作りたくないし、何か共作するのも嫌だと思っていた。もし仮にするのであれば、自分 or 相手がどちらかの補助、もしくはお手伝い、という感じが良い!と思い込んでいた。

 でももの作りというのは案外二人組でしたほうが良いのではないかとこの映画を観て思うようになった。そもそも世の中は理系と文系の二者で成り立っているし、もっと根源的なことを言うと男性と女性が一組になって初めて「愛」が完成する。

 そのように、映画も小説も漫画も、本当は全部「二者」によって成り立っているのではないか、と今この文章を書きながら思い始めた。まさかこの文章がこういう方向に進むとは思わなかったので、このまま進めていく。

 僕も映画を撮る時、小説を書く時、漫画を描く時、絵を描く時、詩を書く時、何かを生み出そうとする時、誰かをひとり思い浮かべる。それは現在片思いの人の時もあるし、去年片思いでふられた人の時もあるし、中学生の時にふられた人の時もある。親の時もあるし友達の時もあるし、「自分」の時もある。そう、僕はよく「自分」のことを想いながら作品を作る。

 それは自分との対話だ。対話というのは単独ではできない。二人の人間が必要だ。「僕」と今目の前にいる「僕」だ。もうひとりの「俺」などという中二臭いことを言っているのではなく、「僕」が「僕」と向き合っているのだ。二重人格の話をしているのではなく!自分が自分を見詰めているのだ!見詰めてもいるし、見詰められてもいるのだ!もの作りって凄え!

 そして僕は作品を作ると、大抵はその作品に興味を失ってしまう。嫌悪感すら覚えてしまう。なぜだろう。自分が産んだ子供なのに。まるで興味がない。いつかそれをテーマにして何かしらものを作りたい。問題解決のためでなく、ただのその場凌ぎの誤魔化しのために…

 もの作りなんかいつだってその場凌ぎの誤魔化しだ。本当に描かなければならないものはこの世にいっぱいある。政治に関すること、原発に関すること、テロ紛争に関すること…そんなテーマが目の前にフワフワ宙ぶらりんになって浮かんでいるのに、僕は目を背けて自分を語る。自分について語る。そして自分について語った燃えカス(作品)を眺めては自己嫌悪に陥る。いったい俺は何をしているんだろう。世界を変えなきゃいけないのに。お酒に酔っている場合ではないんだ。

 そんなことを思いながらも、結局僕は何もしない。Twitterに頭を捻って浮かんだつまらないことをツイートする。映画を観る。Filmarksを更新する。いいね!されてちょっと嬉しい気持ちになる。ものを食う。ゴミをゴミ捨て場まで運ぶ。Twitterをする。その繰り返しだ。そんなことを繰り返して、自己嫌悪に陥ってわけのわからない自撮り映画を撮って、そんなことをしているうちに2015年の夏は終わってしまった。僕の2015年の夏はもう二度と帰ってこない。僕の2015年の夏は僕の怠惰な生活と妥協の連続によって生まれた渦に綺麗に飲み込まれてしまった。もう暑くない。扇風機もいらない。来週からはもう学校だ。一か月半の夏休みはまるで飲み込んだガムのようにツルリと喉元を通り過ぎて行った。めっちゃウケる。